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三沢商業と甲子園の伝説は太田幸司からはじまった。
当時の試合を思い出しました。1968年の夏の大会。
三沢 VS 松山商の優勝決勝戦は延長18回まで0点のまま引き分けた。
翌日延長戦も太田幸司一人でなげきった。
当時の視聴率は青森県内ではおそらく最高値ではと想像する。
県内の町に人がいなくなった!ほとんどの県民は甲子園決勝
三沢戦で(テレビの前・ラジオ)にくぎ付けとなった。
当時ニュースでも話題になった。
三沢高校在学中に、野球部のエースとして1968年夏、1969年春・夏と阪神甲子園球場で行われた選抜高等学校野球大会・全国高等学校野球選手権大会に3大会連続出場を果たした。
特に1969年夏は、東北勢としては戦後初の決勝進出を果たした。その決勝戦、松山商業戦に2日間の熱投が行われた。1日目は、三沢は満塁サヨナラの好機を2回も逃すなどもあり、延長18回(試合時間:4時間16分)を戦い抜いて0-0の引き分けとなった。太田はこの試合を1人で投げ抜いた(投球数:262球。松山商のエース・井上明(のち朝日新聞記者。高校野球担当)も一人で232球を投げ抜いている)。再試合となった2日目の試合も全イニングを投げたが、2-4で敗戦。決勝戦計27イニング、準々決勝からの連続45イニングを1人で投げ抜いた熱投も実らず、準優勝に終わった(第51回全国高等学校野球選手権大会決勝の項も参照)。甲子園の2日間にわたる決勝戦と延長戦を一人で連投したことが、投手としての寿命を縮めた(能力を損ねた)のではないか、とはよく言われることである。ちなみに太田本人はこの点に関し恨み言をしたことはない。
出典:wikipedia
夏の甲子園に29年ぶり2度目の出場を決めた青森・三沢商ナインの壮行式が28日、同校体育館で行われた。全員地元出身のナインが私立の強豪を破り、青森の公立校として19年ぶりの甲子園出場。学校はもちろん三沢市全体が大舞台へ向けて熱く盛り上がっている。ナインは31日、出発する。
壮行式には全校生徒560人が出席。鎌本憲主将(3年)が「甲子園ではどんな状況でも笑顔を忘れず、楽しんでプレーしてきたい」とあいさつした。池田敏校長は「青森大会は相手の流れに巻き込まれず、燃える心と冷静な心でプレーした」とナインをたたえた。
生徒を代表して生徒会の新山将平副会長(3年)が「この夏は一生忘れられない。甲子園でもっと忘れられない夏にしてください。皆さんは生きる伝説です」とナインを激励。続いて甲子園応援の練習を全員で行い、久々の甲子園出場ならではの初々しさをみせた。
人口約4万1000人の三沢市に高校は三沢商と三沢の2校だけ。三沢は68年夏から3季連続甲子園出場。69年夏は松山商(愛媛)と球史に残る決勝再試合を演じて準優勝した。そのイメージが強いが、三沢商も伝統校。町の2校だけの高校が、ともに夏の甲子園2回出場は珍しい。
出典:日刊スポーツ
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