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かつて日本の真ん中は青森だった? 「日本中央の碑」にまつわる奇妙な伝説
今からおよそ70年前、青森県の東北町で「日本中央」の文字が刻まれた巨石が出土した。現地に残る伝承によると、これは平安時代に坂上田村麻呂が残した石碑であるという。なぜ、田村麻呂は青森を日本の中央としたのか? 東北に残る奇妙な伝説を追った――。
坂上田村麻呂が残した伝説の石碑
日本列島を俯瞰してみれば、その「中央」にあたるのは、およそ長野県あたりと考えるのが普通だろう。ところが昭和24年(1949)、青森県・東北町の赤川上流域で、「日本中央」と彫られた巨石が見つかり、大きな話題を呼んだ。なぜなら、この地域には古くから、坂上田村麻呂が遺した「壺の碑(つぼのいしぶみ)」が眠っているとの伝承が残されていたからだ。
坂上田村麻呂といえば、平安時代に征夷大将軍を2度務めた武官。その田村麻呂は東征に向かう道中、傍らにあった大きな石に弓のはず(弦をかける部分)で「日本中央」と彫ったと伝えられている。
田村麻呂の活動時期から、それが彫られたのは9世紀初頭と考えられ、いつしかその石が「壺の碑」と呼ばれるようになった。
和歌に詳しい人であれば、「つぼのいしぶみ」という言葉に聞き覚えがあるかもしれない。寂蓮法師や藤原顕昭など、多くの歌人の作品に登場する歌枕で、かの源頼朝までもが、「陸奥の磐手忍はえそ知ぬ 書尽してよつぼのいしぶみ」と詠んでいる。
いずれの歌でも、「行方の知れないもの」、「はるか遠くにあるもの」というニュアンスで用いられているのが興味深い。その「壺の碑」が青森で出土したとなれば、大騒ぎになるのも当然だろう。
小雨の降る河川敷から出土した「壺の碑」
東北町ではすぐにこの「壺の碑」と思しき巨石を保存し、有形文化財に指定。今日では「日本中央の碑」として、町内の保存館で展示公開している。
発見の経緯はこうだ。昭和24年の6月21日、現在は故人である川村種吉という人物が、馬頭観音に祀る石を運ぶため、小雨がそぼ降る中、朝から親族数名と共に赤川沿いの雑木林へ馬そりを引いて向かった。
種吉氏は以前から、そこに転がっていた巨石に目をつけていたという。それは高さ1.5メートルほどの自然石で、少し地面に埋まった状態で放置されていた。数人がかりで土砂を取り除き、そりに運び込む。するとその際、親族の1人が「何か書いてあるぞ」と声を上げた。
そばに落ちていた木の葉で泥を拭ってみると、そこにはうっすらと「日本中央」の文字列が――。これが伝説の「壺の碑」ではないかと考えるのは、伝承を知る者からすればごく自然なことだろう。
かくして、「壺の碑」発見のニュースは、瞬く間に全国に知れ渡ることに。なお、この発見ポイントには現在、「日本中央の碑」と記された案内板が立てられている。
なぜ青森が日本の中央なのか?
もちろん、この巨石を「壺の碑」であるとすることに異論がないわけではない。むしろ、発見と同時に学者や研究家の間でかんかんがくがくの真贋論争が沸き起こり、今なお結論は出されていないのが実情だ。
そもそも最大の謎は、田村麻呂がなぜ、青森を日本の中央と記したのか、である。
これについては諸説あるが、ひとつの考証として、日本を「にほん」でも「にっぽん」でもなく、「ひのもと」とする説がある。なぜならその昔、東北地方全体を「ひのもと」と呼んだ時代があるからだ。
たしかに、詳細な日本地図が存在しない時代であるから、田村麻呂がここを東北地方の中央と捉えたのも、無理はないように思う。
あるいは一部の研究家の間では、千島列島までを含めて解釈すれば、ここを日本列島の中央と捉えることは可能との意見もある。しかし、これは時代背景にそぐわないだろう。
「日本」という国名が使われるようになったのは7世紀と言われるが、当時の日本がどこまでの範囲を示していたのかはわからない。つまり、「日本中央」が意味するところもまた不明ということになる。
日本中央の碑は今日も物言わぬまま東北町に鎮座し、歴史ファンや考古学ファンの来訪を待っている。間近に見る「日本中央」の文字は、古の人物の手によるものとは思えないカジュアルな筆跡で、正直なところこれを田村麻呂が彫ったというのはあまりピンとこない。
しかし、弓のはずでガリガリと彫ったなら、こんなものなのかもしれない。いずれにせよ、真相は藪の中。皆さんもぜひ、「つぼのいしぶみ」の現物をその目で拝み、思い思いに想像を巡らせてみてほしい。
出典:Yahooニュース
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